日本矯正歯科学会認定医・歯学博士 河底晴紀
はじめに:きっかけは「前歯の歯石」だった
この患者さんが矯正相談に来られたのは、29歳のときでした。
「一般歯科でクリーニングを受けた際に、“前歯の裏に歯石がたまりやすいですね” と言われて、将来的に歯並びが悪いと歯周病にもなりやすいと気づいたんです」と話してくださいました。
主訴は「下の前歯のガタつき」。
見た目の気になる程度ではなく、汚れが溜まりやすいことによる歯ぐきへの負担や口腔内の健康寿命を意識された上でのご相談でした。
このように、「予防の延長線としての矯正治療」を検討する方が増えており、その背景には30歳前後での歯ぐきの変化や清掃性の悪化への気づきがあります。
診断と治療方針:右下2番を抜歯するという選択
初診時、口腔内を確認すると、下顎前歯部に明らかな叢生を認めました。
咬合力は問題なく、全体的な歯の健康状態は良好でした。
結果、最終的な治療方針は次のようになりました。
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右下2番を抜歯し、全体のスペースバランスを整える
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ワイヤー矯正により上下の咬合関係を安定化させる
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治療期間は約2年間を想定し、機能と清掃性の両立を目指す
抜歯の意味:「抜く」ことは目的ではない
「抜歯をしなければいけない」と聞くと、多くの方が不安になります。
「他の先生は抜かないって言った」
「歯を抜くのはできるだけ避けたい」
当然のことです。歯は一度失えば戻りませんし、「抜く」ことへの抵抗は誰にでもあります。
しかし、矯正治療での抜歯とは、目的ではなく“手段”です。
歯を抜くことそのものがゴールではなく、
最終的に 「噛める」・「長持ちする」・「美しい」 という条件をすべて満たすために必要な場合にのみ行われます。
私たち矯正医の基本的な考えとして、
「抜かなくて良い歯は絶対に抜かない」
これは当たり前の前提です。
しかしながら、“抜かないこと” が結果的に歯ぐきに負担をかけ、将来的な歯の寿命を縮めてしまうケースも存在します。
このバランスを見極めることこそ、矯正医の経験と診断力が問われる部分です。
治療中の経過:2年間、丁寧に歯を動かす
治療は、右下2番の抜歯からスタートしました。
まず、抜歯スペースを活用して前歯のガタつきを徐々に整え、咬合平面が水平になるようコントロールしました。
治療後は保定装置(リテーナー)を使用し、もともと歯への意識が高い方だったので引き続きメンテナンスに来られています。
口元の印象も自然になり、下唇の張り感が和らぎ、横顔のバランスが改善。
患者さん自身も、「前歯の裏が驚くほど磨きやすくなった」「歯ぐきが健康になった気がする」と笑顔で話してくださいました。
治療ゴールの設定:何を優先するかで、「正解」は変わる
矯正治療には「唯一の正解」というものが存在しません。
同じ歯並びでも、「どんなゴールを設定するか」「何を優先順位のトップにするか」で方針が大きく変わります。
本症例の29歳男性の場合、「清掃性と長期安定」が最も大切な目的でした。
歯を守るための矯正である以上、無理に非抜歯で並べて歯が綺麗に並ばないのは、本末転倒です。
「どうすれば10年後、20年後に健康なお口の状態でいられるか」
その長期的視点を持つことが、矯正治療の成功の鍵になります。
抜かないという選択にも、リスクはある
矯正相談の際によくある誤解が、
「非抜歯治療 = 良い治療」
という考え方です。
確かに、歯を抜かないで並べられるに越したことはありません。
しかし、成人矯正では骨の柔軟性が少なくなっているため、
無理に拡大したり前方に歯を出したりすると、以下のような問題が起こることもあります。
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歯ぐきが下がる(歯肉退縮)
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歯の根が骨から飛び出してしまう(歯槽骨の吸収)
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咬合の不安定による再発(後戻り)
つまり、「抜かない」こと自体にリスクが潜むこともあるのです。
だからこそ、“今”だけでなく“将来の安定”を見据えた治療ゴール設定が不可欠になります。
矯正医の使命:「必要な抜歯」と「不要な抜歯」を見極める
私たち矯正専門医にとって、最も重い決断のひとつが「抜歯の判断」です。
抜くことが目的ではなく、“より良い状態を最も自然な形で実現するための選択”です。
そして、どんなケースでも共通して大切にしているのはこの信念です。
「抜かなくて良い歯は、絶対に抜かない。」
これは感情的なスローガンではなく、科学的根拠に基づいた倫理の問題です。
歯列の美しさも、機能の安定性も、一本一本の歯が健康であることを前提に成り立ちます。
治療ゴールを“見た目の整列”だけでなく、
“機能し続ける口腔”として定義すること。
それが、本当の歯列矯正だと考えています。
治療後の変化:整然とした下顎前歯がもたらしたもの
治療を終えて1年後、この患者さんが定期健診に来院された際、
「本当に磨きやすくなりました。今は歯石がほとんどつかないんです」と明るく話してくださいました。
実際、下顎前歯部の清掃性は格段に向上し、
歯ぐきの発赤(炎症)も改善。
歯列が整うことで唾液の流れも良くなり、自然の自浄作用が働くようになっていました。
これはまさに、機能と見た目の両立が達成された瞬間です。
まとめ:矯正の本質は「歯を並べること」ではない
矯正治療とは「歯を動かす」ことではなく、
「その人の人生に合わせた口腔機能を再構築すること」です。
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抜歯が必要なケースでは、未来への投資として慎重に行う。
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抜歯が不要なケースでは、歯と骨を最大限に守る設計をする。
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そして、どんな場合でも「治療ゴール」と「優先順位」を明確にする。
今回の29歳男性のように、
「歯石が付きやすい」という小さなきっかけから始まった矯正治療が、
将来の歯ぐきの健康を守る大きな選択につながることもあります。
歯並びは見た目だけでなく、毎日の清掃性や歯周病予防にも直結する健康要素です。
もし今、あなたが「抜歯するかどうか」で迷っているなら、
一度、「10年後にどうありたいか」という視点で考えてみてください。
それこそが、本当の治療ゴールを決める第一歩です。
筆者プロフィール:河底晴紀(歯学博士/日本矯正歯科学会認定医)
この記事は、河底歯科・矯正歯科院長河底晴紀が書いております。
◾️資格
・歯学博士
・日本矯正歯科学会認定医
◾️所属
・日本臨床歯科学会
・K-Project
・FCDC
・MID-G
・福山市歯科医師会 理事







